校友ハツラツ女子

vol.445(発行日: 2021年3月8日)

キラキラ輝く女性校友をインタビュー!!
今回登場するのは、大阪工業大学建築学科を卒業後、
設計事務所勤務を経てプロのサックスプレイヤーに転身したエネルギッシュな女性。
大学当時も振り返っていただき、建築の世界からミュージシャンへの道のりを語っていただきました。

大阪工業大学 建築学科 2009年卒業

坂田 明奈

さん

(さかた あきな)

奈良県出身、中学時代にサックスに出会う。大阪工業大学建築学科を卒業後、設計事務所に就職したが、自分の本当の夢を見つけミュージシャンへ転身。才能を見出され2013年に上京。2021年1月に初のソロアルバム「Sister A.K.N. -episode one-」をリリース。

生い立ちを教えてください。

実家は工務店で父は三代目、母はピアノの先生で、姉と妹の三姉妹です。
中学で吹奏楽部に入部し、ソロで目立つからと希望したのがサックスとの出会いです。それからサックスが大好きになり、3年生最後の夏のコンクールでは金賞を受賞して仲間と演奏する楽しさを学びました。猛勉強して郡山高校に合格し、念願の吹奏楽部に入ることができました。部員は100人超え、朝練・夜練と部活漬けの毎日を送りましたが、大学の進路を決めるときは、音楽関係ではなく迷わず建築学科を選びました。姉はすでにピアニストを目指しており、父に喜んでもらいたくて私が工務店を継ぐつもりでした。先生には「坂田が受かる建築学科はあるかな?」と言われ、大学、短大、専門学校と10校くらい受験しました。奇跡的に大阪工業大学の建築学科に合格することができて先生もビックリ。父もとても喜んでくれました。

どんな大学時代を過ごされましたか?

設計や意匠、建築の歴史を学ぶ科目や模型作りは好きでしたが、材料力学や設備は苦手でした(笑)。高校時代のサックスパート5人で結成したバンド「ガラムマサラ・サックスアンサンブル」で中学校の文化鑑賞会やライブハウスで演奏するなど、大学時代も音楽を続けていました。

3年生から峰岸先生の研究室に入り、峰岸先生、寺地先生にとてもお世話になりました。卒業設計は音楽に関することをテーマにしたいと伝えたところ、峰岸先生からの提案で、スローライフで暮らす芸術家たちの住む村を、奈良県の室生(むろお)をモデルにして設計しました。

就職活動では、周りが大手ゼネコンやハウスメーカーを目指す中、デザインにしか興味のない私は設計事務所を目指し、作品集を持って面接に走り回りました。そして、卒業前の年明けにようやく大阪の設計事務所への就職が内定しました。

大学時代に描いたイメージスケッチ

就職してからはどうでしたか?

デザインや設計ができることが嬉しかったです。現場や役所に行ったり、実際に建てる建築物の図面を描いたり…、しっかり学んで父の手伝いをしようと意気込んでいました。しかし期待に応えられず、悔しい日々が続きました。吹奏楽で鍛えられ、根性もあると思っていましたが、建築の仕事は私にとって想像以上に厳しく、このまま続けるとお客様にご迷惑を掛けてしまうと思い、入社から1年弱で退職を決めました。父に喜んでもらいたい、家業を継がなくては、という思いで建築家を目指しましたが、それだけでは乗り越える原動力にはならなかったのだと思います。
退職後しばらくはのんびりしていましたが、このままではだめだと思い、心の底から自分のやりたいことは何かを見つめ、どんな人生にしたいかを自分で決めようと決意しました。何をしているときが一番楽しいのか?と考えるとすぐにサックスが思い浮かびました。ミュージシャンになるのは夢のまた夢と思いつつ、想像するだけでワクワクしました。

プロのミュージシャンに転身するきっかけは?

スウェーデンでプロのピアニストとして活動している姉が日本ツアーのために一時帰国した時、マイケル・ジャクソンの映画「THIS IS IT」を一緒に観に行きました。小学生の頃から憧れていたマイケル・ジャクソン。愛にあふれ音楽やダンスを通してたくさんの人を感動させてきた生きざまが本当にカッコよくて、私もサックスでそんなことができるようになりたいと想いがあふれ、帰り道で「私、ミュージシャンになりたいねん」と打ち明けました。姉はとても驚いていましたが「応援する、がんばり!」と。身近にミュージシャンとして活動する姉がいたから「自分にもできる」という気持ちになれたと思います。

家業を継ごうとしていた自分がミュージシャンになると言ったら父は反対するかと思いましたが、思い切って伝えると「いつからそんなこと思とったんや」そして「良かったな、やりたいことが見つかって」と後押ししてくれました。ライブにも時々来てくれますが、いまだに参観日の父親目線になってしまうみたいです(笑)。

ミュージシャンを目指してからはどうでしたか?

高校時代の「ガラムマサラ」のメンバーからサックスプレイヤーの堂地誠人さんに師事してはと勧められ、ライブを観に行きました。初めてのプロサックスプレイヤーのライブ、堂地さんの演奏は本当にカッコよかった。緊張して弟子にしてほしいとは言えずにいると友人が伝えてくれ、まずはリハーサルからライブを見せてもらったり、セッションに連れて行ってもらったりして、その後正式に弟子入りをお願いしました。それから月2回のレッスンとアルバイトの日々が始まりました。堂地さんのライブにもお供させていただき、プロの現場に触れる中で、演奏技術だけでなくミュージシャンとして大切なことをたくさん教わりました。レッスンのおかげでアドリブもできるようになると、セッションにも積極的に参加し、気が付けば9つものバンドを掛け持ちしていました。

なぜ上京することになったのですか?

弟子入りから2年半ほど経った時、あるコンテストへの出場を勧められました。腕試しと考えて応募したところ、一次審査、二次選考、そして東京での最終選考まで進みました。当日は始まるまでドキドキでしたが、ステージに立った瞬間、かっこいいバンドの皆さんと一緒に演奏できることが嬉しく、そのセッションをただ楽しんだことを覚えています。グランプリの発表で自分の名前が呼ばれた時はふらふらしながらステージに上がりました。数日後、審査員だったベーシストの坂本竜太さんから、神戸チキンジョージで開催されるジャンクフジヤマさんのライブに参加しないかとお誘いを受けました。第一線のプロの皆さんとの演奏。「やります!」とお返事してライブの曲を猛練習しました。その打ち上げでジャンクフジヤマさんのマネージャーさんから、「東京に来た方がいいよ!」と言われ、今しかないと思い、すぐに上京を決めたんです。

いくつものアルバイトを掛け持ちしながらセッションに行き、毎月のように自分のライブもしました。でもどんなにお金がなくても、演奏がうまくいかず悔しい思いをしても、やめたい、奈良に帰りたい、と思ったことは一度もありませんでした。

東京で出会った仲間と組んだ現在も活動中のインストバンド「RATEL(ラテル)」では、2枚のアルバムをリリース。また、サックス専門誌「サックス・ワールド」で、〝坂田明奈のいまさら聞けない?サックス超初級セミナー〟を連載させてもらっています!

初のソロアルバムはいかがでしたか?

マイケル・ジャクソンや渡辺貞夫さんのようなスタープレイヤーにあって、自分に不足しているものは何だろうと考えた時、「坂田明奈といえばコレだ」という強いイメージがないんじゃないか?と思うようになりました。東京でプロとして活動する上で、色々な音楽を演奏できないとだめだと焦り、得意じゃないことにもチャレンジしてきましたが、自分の根底にあるのはファンク。自分の中にあるファンクを出し切った作品を作りたい、と思うようになりました。

コロナ禍で、プロデューサーの坂本竜太さんも少し時間に余裕があるとのことでチャンスだと思いました。でもCD制作には思いのほかお金がかかります。クラウドファンディングを勧められましたが、最初は乗り気ではありませんでした。しかし、周りの人から「夢を共有できるから応援するんだよ」と言われて、クラウドファンディングに挑戦。結果、目標の80万円を大きく超えて、200人以上の方から180万円を超える支援を受けました。おかげ様でCDアルバムと同時にミュージックビデオも制作できました。

今後の目標を教えてください。

自分が高いレベルになりたいという自己実現欲だけでなく、私の演奏を聴いてくださる方に喜んでもらいたいという思いも同じぐらい持っています。周りの方も自分も一緒に感動できるような活動を続けていきたいと思います。

また、建築家の道を諦めた後にサックスプレイヤーを目指すことができた経験から、夢を追っていいんだということを若い人たちに伝えていきたいです。渡辺貞夫さんのように、サックスを通して人生の全てが本音で伝えられる、人間性を感じられる演奏を目指したいですね。

こぼれ話・・・

取材前に拝見した写真では、目じりが上がってキリッとした、クールビューティーなイメージ。インタビュー時には全く違う優しい表情で、明奈さんに聞いたところ、普段の自分とは違う面を表現されているそうです。アーティストの勝負メイクですね。